ハングリー精神を持つ、劣勢にあった人が、あこがれ渇望していた優性の人を従える、妻にする、というのは、ひとつの征服欲が満
位元堂 防掉髮たされ、ご褒美が自分に与えられるべきと感じるのだろう。
ご褒美が、羊3頭でも、馬5頭でもいいのだが。
羊や馬も尊いと思うので、たとえ羊や馬と同列にご褒美としてゲットされたとしても、トロフィー妻も、やはり、それぞれに尊い。
ご褒美に対して、わたしは否定しない。
もし自分が、若く美しいと仮定して(ありえないけれど、あくまでも仮定)、民の平和を祈願して大規模建築の人柱になるなら、自分の命は尊いので、生きて人柱に捧げられるより、トロフィーとして、成功者に捧げられたい。
(また、そういう、的な、感情移入しにくい例え)
トロフィー妻にも選ばれていない分際で、トロフィー妻はけしからん、と吠えろで、誰の目から見ても、どういうシチュエーションの人間が述べていることか、明確にわかるだろう。
この例えは、わかりやす過ぎるが、世の中には、ちょっとわかりにくい事例がゴロゴロ転がっている。
自分が出来ないから、出来る人の、別の側
位元堂 防掉髮面のマイナス点を攻撃する。
悔しいから、素直に負けを認めない。
トロフィー妻になれるだけの、若くて美人なら、トロフィー妻を否定したり、非難したりできるだろう。
若い時でさえ美人ではなかったわたしが、トロフィー妻は流行遅れだ、と言っても、なんだか、痛い。
で、最初、言いたかったことを、少し変えて、
トロフィー妻は、羊や馬が尊いのと同様に、生き物として、尊い。
そうすると、わたしも、若くて美しくはないが、生き物として尊い。
みんな尊い。
でも、あんまり生き物括りで生きる価値を同列に捉えると、ビーフステーキを食べたり、とか、革のバッグや靴、使えなくなりそうだ。
論点は、思いっきりずれて、車内移動時間の、ただの
位元堂 防掉髮暇つぶし独り言になってしまった。